生活お役立ち

日本の熊害事件をランキングにしてみた

日本の熊害事件

クマ。それは日本における最恐の動物。
人間。それは日本において唯一クマに対抗しうる哺乳類。

両者は共存できるのか。それとも……

今回は趣向を変えて、クマと人間の戦いの記録を簡易的にまとめてみた。日本においてクマが人に危害を及ぼした事件――熊害(ゆうがい)事件を、個人的な観点からランキング形式にして紹介する。

単純な死傷者数だけでなく、事件の凄惨性や異常性、原因などの観点からインパクトがあると判断した熊害事件を取り上げた。

内容の関係上、ショッキングな表現が登場します。苦手な人はご注意ください。
また、できるだけ正確な情報を心がけましたが、内容に誤りがある可能性があります。その場合はご指摘ください。

日本のクマについて超簡易的な知識

世界には8種類のクマが存在しており、日本にはうち2種類が分布している。

青森県以南、九州を除く本州全域に生息するツキノワグマ。北海道のみに生息するエゾヒグマ。北海道と本州の境界を「ブラキストン線」と呼び、ここを境に動植物の分布が大きく異なるといわれている。

本州にもかつて(といっても数万年単位)ヒグマは存在していた。しかし、エゾヒグマとはルーツが異なるヒグマで、非常に獰猛だったという。正直絶滅してくれて一安心。

ツキノワグマが体長120~180cmであるのに対して、ヒグマはおよそ180~280cm。ツキノワグマはブナやミズナラなどの落葉広葉樹林や、笹、虫などを食べる雑食で、鹿や人間を襲って食べることは基本的にはない(例外もいる)。

一方のエゾヒグマは鹿を食することも多く、ときに人間を食料と認識する個体がいる。

現在、本州の約45%の地域にツキノワグマが、北海道では約55%の地域にヒグマが生息している。

そして、クマによる人身被害は2020年時点で22道府県で発生し、年間ではおよそ80件にのぼる。うち死者数は5名(昨年時)。

日本の熊害ランキング

では、個人的にインパクトがあった熊害を紹介していく。

8位 荒れ狂うクマ、逃げ惑う人々/乗鞍岳クマ襲撃事件

まずはウォーミングアップから。
軌跡的に死者数ゼロで終わった近年の事件をとりあげようと思う。

岐阜県と長野県の境に位置する乗鞍岳。標高2702メートル、日本一高い場所にあるバスターミナル「畳平バスターミナル」で事件は起きた。

多くの登山客で賑わう紅葉シーズンの休日に、突如ツキノワグマが出現。手当たり次第に人々を襲っていく。

本来人間を怖がるツキノワグマが、なぜ大勢の人を前にして逃げずに暴れ出したのか?

概要は以下の通りだ。

概要

2009年9月19日。乗鞍岳に属する魔王岳付近の畳平バスターミナルには、連休中ということもあり1000人近い観光客が集っていた。

突如、魔王岳中腹からツキノワグマが全速力で駆け下りてきて、近くにいた観光客の男性Aに襲い掛かる。写真を撮っていただけのAはクマの接近に驚き逃げようとするものの、膝をひっかかれて重傷を負う。

クマはそのまま登山道を登り、登山客の女性B、助けようとした男性Cを次々と襲撃。いずれも命は助かったが、Cは顔面を殴られて歯と右目がまろび出る事態となった。

もはや一般客には手のつけようがない。あたりは騒然とし、成すすべなく逃げ惑うしかなかった。

山荘経営者のDの機転により、観光客はバスと建物の中に避難する。Dと、同じく山荘職員の男性Eがクマを追い払うべく音を立てるが甲斐なく犠牲者に。

Dの息子であるFがクマを蹴ったことや、警備員が軽トラックで駆け付けたこともあり、2人とも大けがではあったが命に別状はなかった。

とはいえ、Dは120針縫うけがを負ったとか……。

軽トラやバス、タクシーがクラクションを鳴らすも一向に逃げないどころか、軽トラにタックルをくらわすクマ。やがてターミナルの建物のバリケードも破壊。館内に侵入。バスの運転手や、助けようとした3人の従業員らに噛みつく。現場は阿鼻叫喚。

最終的にクマは館内の土産売り場に閉じ込められ、駆け付けた猟友会のメンバーたちに射殺された。

21歳、オス。体長は130cm程度、体重は約67kg。

これだけ大勢の人を前に逃げない異常性

死者こそ出ていないため大きな熊害として扱われないが、異常性だけで見たらもっと順位を上げてもいいと思う事件だ。

本来人を攻撃しない、また人を恐れるといわれているツキノワグマが、大勢の人を怖がるどころか襲い続けている。ヤク中を疑いたくなる狂乱ぶりである。

出会いがしらから興奮していたクマがなぜか暴れまわった。この事件があるから私は「ツキノワグマは人を襲わない」との言葉を信用できないのである。

一説によると、最初のAが目撃する前に、誰かが登山道でクマと遭遇してその際にクマを驚かせてしまったのではないかといわれている。

また、この事件の少し前にクマはバスとの接触事故を起こしており、興奮状態であった理由はある程度解明された。

しかし、大規模に発展した事件なのだから、もしもAより前に遭遇した人がいるのなら、名乗り出ているか調査でわからないものだろうか。

いずれにせよツキノワグマといえど興奮したら手に負えない点、被害者のほとんどが顔面を殴られている点から、クマが顔を狙うのは常套手段であることが証明された。

余談だが、女性Bを助けるため杖で応戦した男性Cが、当時「Cの攻撃でクマを興奮させた」と、まるで戦犯のように叩かれた。事実確認をせず安全圏から石を投げる。クマの異常性さもさることながら、醜い国民性が現れた胸糞の悪い事件である。

おまけに助けた女性が誰かもわからずお礼も何もないとかで、C氏も浮かばれない。いや、生きてはいるが。

7位 自宅付近で犬の散歩中に襲撃/富山県入善町住宅街クマ出没事件

熊害は北海道や山間部だけ。不用意に山へ入るから襲われる。登山などしなければいい、山菜取りなど行かなければいい。そう思っている人もいるかもしれない。

しかし、なにもクマは山中のみに出没するわけではない。私たちの生活圏すらときに脅かす存在だと忘れないためにも、この事件を紹介しておこう。

平成の半ば、富山県のとある住宅街を騒然とさせた熊害事件である。

概要

現場は2006年10月26日、富山県の入善町(にゅうぜんまち)。北は日本海、南は北アルプスに面し、扇状の地形、湧き水が有名な自然美しい場所である。

そんなありふれた町の町道で、犬の散歩をしていたNがツキノワグマに襲われた。午前6時過ぎ、現場はNの自宅近く。犬の散歩は彼の日課だった。

悲鳴を聞きつけ近所の女性が家の窓を開けると、1mほどのクマが逃げていくところだったという。

同時に血を流して横たわるNも発見。顔や頭を引っかかれ、首には5cmにもわたる傷があった。すぐに救助搬送されたが、搬送先の病院で亡くなった。

現場は住宅街で、付近には中学校や保育所、商店街などが広がり、人々の日常が営まれる場所だと容易に想像がつく。町をあげて厳戒態勢が取られ、一時町内は騒然となった。

恐ろしいことに、このクマがどうなったのかはわからない。事件の際に逃げた飼い犬は戻って来たらしいが……。

町中にクマは勘弁。せめて許せてイノシシ

地方新聞が取り上げた程度の知名度の低いニュースではあるが、自宅付近、それも住宅街での熊害死亡事件は珍しいので紹介した。

言い方は悪いが、北海道での熊害となると「まあ、あるよな」という雰囲気があるし、ヒグマなら納得できてしまう。北海道は試される大地であるから、どこか非日常感が漂う(北海道民には申し訳ない)。

しかしこと本土、それも山間・山里以外の事件となると、途端に他人事とは思えなくなってしまうから不思議だ。

同市では水田など町中でたびたびクマが発見されているらしい。とはいえNもまさか犬を散歩していてクマに殺されるとは思わなかっただろう。熊害は意外と身近なところにあるのかもしれない。

近年クマの駆除ニュースが流れるたびに騒ぎ立てる人間がいる。この町の隣人として生きていても、同じ意見を持てるだろうか。そんな疑問を考え直させてくれる事件のひとつである。

6位 何も知らない学生がクマを解剖したところ…/札幌丘珠事件

戦前に発生した三大熊害のうちのひとつに記録される、札幌丘珠(おかだま)事件。1878(明治11)年と時代は遡る。今回紹介する熊害事件では、もっとも昔に起きた事件だ。

余談だが、丘珠の由来はアイヌ語の「オッカイ・タㇺ・チャラパ」らしい。
え?この小さい「ㇺ」、どうやって入力するの?

概要

当時の札幌村(現札幌市)は、まだ多くの原生林、草原に覆われていた。

季節は真冬の1月、場所は現在ハイキングやバード・ウォッチングで市民が訪れる円山(まるやま)山中。

地元猟師のHが冬眠中のヒグマを銃撃した。現在では鳥獣保護法により禁猟時期であるが、当時はそのような取り決めはない。チャンスだと思った猟師だが、急所を外した挙句、起きてきたヒグマの逆襲に遭い咬殺された。

クマ穴の中で休んでいたヒグマにしてみればいきなり狙撃されてわけがわからなかっただろうから、猟師の件に関してはやや同情的だ。

以前「冬眠中のクマを起こしたらどうなるか?」という議論が交わされているサイトで「寝ぼけているから襲ってくることはない」との意見をみた。が、どうやら覚醒と共に襲ってくることが、100年以上も前に証明されてしまっている。

ヒグマはその後、山を下り草原を滑走する。悲劇の始まりだった。

場所は現在の札幌市豊平区、白川区、東区あたりであったといわれている。現在は住宅地が広がる一帯のため、想像が難しい。

事件が明るみになり編成された駆除隊は、広大な野原と吹雪により、クマの捜索と捕獲に難航した。

そうこうしているうちに同日深夜。空腹状態のヒグマは、丘珠村に住む入植者・S一家の小屋へたどり着く。当時数百人ほどの村民は、多くが炭焼きで生計を立てており、Sもまた炭焼き職人であった。

手負いのヒグマは興奮状態のままS宅を襲撃。家主のSを戸口で即死させ、妻と生まれたばかりの長男、雇女を次々と襲った。

妻は後頭部をはぎ取られる重症を負い、その際に手から落としてしまった長男はヒグマに食い殺された。

妻と雇女は命からがら近隣の家へ逃げ込み、翌日、ヒグマは山中で駆除隊に発見され射殺された。

体長178cmの大型のオスだった。

後日死体ははく製にされ、北海道産最古のはく製として現在は北海道大学付属植物園に保管されている。明治天皇も天覧したとか。

後日談がホラーじみてる

この話は後日談も併せて印象深い。

射殺されたヒグマは札幌農業学校へと運ばれ、当時教授を務めていた米国人ペンハロー指導の元で解剖実習に使用された。

その際、ヒグマの出どころを知らない学生が物珍しさから肉をくすね、休み時間に焼いて食べてしまう。「臭い、固い」などと感想を漏らしながら実習へと戻る学生たち。

メスを手にヒグマの胃袋を切り開くと、ドロドロとした内容物の中に乳飲み子の手、毟られた妻の髪の毛が混じり流れ出てきて、学生たちは慌てて食べたクマ肉を吐き出したのだという。

ちなみに襲撃されたS家の跡地には札幌市立丘珠小学校が建たったのだとか……。(なにか出そう)

この事件は食害である。

幼い子供が食われ、その後の解剖話などショッキングな映像が繰り広げられたことは間違いない。とはいえ、やや人災にも近いので6位に留めた。

そもそも猟師が最初に仕留めていたら――というより冬眠中のクマを狙わなければ悲劇は起きなかったのではないか。

しかし、貧しい開墾時代。栄養価のある熊肉や高値で売れる毛皮を欲してしまった猟師を、飽食の現代人が責めることはできるだろうか。

5位 生きたまま保存食/石狩沼田幌新事件

さて、次の話も先述の丘珠事件とともに三大熊害事件に属するうちのひとつである。ゴールデンカムイでも触れられた話のようだから、より知名度は高いかもしれない。

北海道の旭川と留萌の中間に位置し、豊かな森林と田園風景が広がる沼田町(旧沼田村幌新地区)。ほたるの里が有名で、田舎暮らしの場所としても人気が高いのだとか。

時は1923年、大正末期。当時は豊かな自然どころの騒ぎではなく、開発もままならない原生林に覆われた未開の地だった。多様な動植物が生息する、まさにヒグマの楽園。そんな場所で悲劇は起きた。

関係ないが同町にはポロピリ湖という、ピロリ菌でも出そうな名前の湖があるそうな。

概要

大正12年、8月21日。田沼市街で行なわれた太子祭見物を終えた村民5名は、自宅への夜道を歩いていた。時刻は23時過ぎ。街灯もない山間部では真っ暗だったことが想像できる。

一行が幌新沢にさしかかったとき、闇の中から巨大な影が現れた。用を足すため集団から離れていた19歳の青年・Hが、まず背後から爪を立てられ襲われる。

しかしHは馬乗りになったヒグマに抵抗し、着物を引き裂かれながらも脱出に成功した。

慌てて前の集団にヒグマの出現を知らせるも、ヒグマは猛スピードで山道を駆け抜ける。ヒグマは先頭まで先回りをすると、15歳の少年Kの腹部に一撃を叩き込み撲殺。その兄のYも一瞬のうちに地面へたたき伏せた。

ちなみに5名のうちH以外は父母子の親子である。

残った両親とHの3人はパニックのまま近所の農家・M宅へ逃げ込み、九死に一生を得る。だが、ヒグマは一度獲物と認識した際の執着心がすさまじく、一同の抵抗もむなしく戸板ごと押し倒し家屋に浸入してきた。

この際に暖炉へ火をくべたり、音を鳴らしたりしているが、効果はなかったという。

部屋の中で暴れまわったヒグマは、最後に母親のUを引きずりながら藪の中へ消えて行く。夫のSはスコップでヒグマを叩き打つもののヒグマは意に介さず、やがて藪影からはかすかな人の声と、不気味な咀嚼音が響くだけになった。

翌朝、屋外のヒグマは消えていた。藪影には下半身を食い尽くされたUの遺体と、腹部を食われ土の中に埋められていた長男が発見された。

長男は発見時にはまだ息があったが、病院への連絡や搬送に時間をとられたこともあり、搬送先の病院で数日後に亡くなった。

一夜にして2名の命を奪ったヒグマの襲撃はまだ終わらない。

翌日から地元消防団・青年団の警戒態勢が敷かれ、さらに村民の男子、警官などによる約300人の討伐隊が組織された。

一方、クマ撃ち名人とアイヌの狩人3名が一足先に駆け付ける。中でも憤慨した猟師のNは「自分が必ず仕留める」と周囲の制止を振り切り山へ入っていく。その後数発の銃声を最後に彼は消息を絶った。

後日、沢の奥でNの頭部と、へし折られた鉄砲が発見されたという。

話を戻し、結成された討伐隊。7班に別れ捜索を続けるが、またヒグマの被害に遭う。突入地点から1.5kmの場所でヒグマに遭遇。直後最後尾の隊員が頭部を殴られ即死、さらに数名の討伐隊員も重症を負う。

元軍人の隊員による銃撃が急所にあたり、直後の一斉射撃でようやくヒグマは絶命した。
体長2m、体重200kg、オスの成獣であった。

その巨大な毛皮は現在でも「ふるさと資料館分館」に保管されている。

ヒグマがなんか勘違いしたっぽいやるせない事件

当時開拓されたばかりのこの地は、人の居住地というよりクマの住処そのものであった。

現に事件より前にもヒグマの被害が多発しており、数日前には野垂れ死んだ馬の死骸が土中に埋められてヒグマが食べていた記録が残っている。

事件も一行の通り道が馬の近くだったことから、ヒグマが「食料を奪う敵」だと判断したゆえに起きたと解釈されている。

惨忍性は非常に高いが、異常性のある事件には感じられなかった。ただ勘違いは勘弁。

異常といえばむしろ、最初に襲われたHではないか? 19歳の若さがあったとはいえ、並外れた生命力。とはいえ当時の恐怖は計り知れず、彼は事件後二度と山へ入れなかったそうな。

この事件はクマが討伐された時点の犠牲者として次男、母親、猟師、討伐隊員の4名が挙げられている。が、重症だった長男は後日容態が悪化して死亡しているので、実質的な犠牲者は5名といってよい。

現場は留萌本線の恵比島(えびしま)駅から、北東へ4~8kmほど離れた地だといわれている。

現在この地は、のちに栄えた炭鉱跡、ポロピリ湖および沼田ダム湖が占めるほか、温泉宿・キャンプ場などがあるだけで民家はない。開発する意味がなくなったわけでもあるが、人が住める場所ではなかったことを示している……。

人間サイドの敗北。

4位 飼育グマ脱走、従業員喰われる/秋田八幡平クマ牧場の人災

今回のラインナップで唯一、人が引き起こした人災による熊害。

それが秋田県鹿角市にある八幡平のクマ牧場で起きた事件である。クマは人間の安全を脅かす存在なので滅んでもよいと考える過激派な私も、この事件ばかりはクマに同情せざるをえない。

概要

事件が起きたのは秋田県鹿角(かづの)市にある観光牧場・八幡平クマ牧場。2012年の4月のことだ。牧場は昭和末期の62年に開園し、十和田八幡平国立公園内に位置していた。

クマ牧場はヒグマやツキノワグマ、コディアックヒグマなど34頭の展示のほか、クマのおやつ販売所や釣り堀も併設していた。入園料は大人500円と、それなりに手ごろ。

事件はクマ牧場の運動場からヒグマ6頭が脱走したことから始まる。

その日4月20日はまだ冬季閉鎖中で、来場者がいなかったのが不幸中の幸いといえるだろう。ヒグマの脱走経緯は人的ミスで、高さ4.5mのコンクリート壁で覆われていた運動場から本来抜け出せるはずがなかった。

しかし、雪深い秋田県。除雪した雪を壁側に投棄していたために巨大な雪山ができ、雪山伝いにクマが塀壁を越えてしまったのである。

最初に気づいたのは餌場で作業中だった2名の女性従業員AとB。そのうち一人の「クマが逃げた!」という叫びで男性作業員Cが駆け付けると、すでにAは噛みつかれて襲われていた。

近くには横たわるBもおり、Cは慌てて経営者Nに連絡。駆け付けた警官や猟友会員の前では、クマが餌を取り合うように女性作業員たちを引っ張り合う光景が繰り広げられていたという。

すぐさま市はクマ脱走対策室をおき、正午過ぎに県警は射殺命令を下す。猟友会会員数名により4時間近くの激闘の末、6頭のクマはすべて射殺された。

このとき要請を受けて駆け付けた、ツキノワグマ撃ちの名人であるSのエピソードが興味深い。

Sは6頭のヒグマを次々とほぼ一撃で仕留めていく。

最後の2頭だけは餌場に隠れたため手こずるが、最後の一頭が5メートルほどの距離からSに飛びかかろうとしたとき、S氏が睨みつけるとヒグマは怯んで後ずさった。このオッサン何者だよ。いや、猟師だが。

ちなみに6頭は1m50cm~2m、体重250~300gの成獣だった。

ブラック企業の引き起こした人害、闇深

2名の女性作業員は両者の判別ができないほど凄惨な状態だったそうだ。2人は同じ苗字とよく似た名前であることから何かしらの血縁関係があるのかもしれないが、詳細はわからない。

被害者も含め従業員は全員60~70代の高齢者であり、そんな年配の3人で30匹以上のクマを飼育していたとは、いやはや、とんだブラック企業である。

秋田県であるからツキノワグマの被害と思いきや、加害のクマはヒグマ。そのため食害も納得なのだが、特に獰猛であったのは極度の空腹状態であったからではないかと言われている。

なぜ飼われているはずのクマが空腹だったのか?

この話は徹頭徹尾人災であり、園はもともと2012年の秋で閉園が決まっていた。赤字が続き、従業員も3人のみの零細企業だったのだ。そのため普段から十分な量のエサが与えられず、近所の病院から提供される少量の残飯を食べていたという。

クマたちは冬眠もできず、ノイローゼ気味であったらしい。また、子熊が生まれてもオス熊に食べられていたという噂もある。

後の話では、経営者はエサの量を減らして自然淘汰させる予定だったことが明らかになった。実際に事件から1ヶ月には、2頭が共食いにより死亡している。

紆余曲折ののち自然淘汰・安楽死は行なわれず、北秋田市の牧場「阿仁熊牧場(現くまくま園)」へ引き取られた。

怠慢な経営が引き起こした悲劇として、10年経った今も語り継がれている。

ただ、亡くなった従業員は家族に「いま運動場に出すと怖い。雪が多くてまだ出せない」と語っていたそうだ。少なくも従業員の一人は雪の壁をクマが越える可能性を知っていたのではないだろうか。

さすれば経営者が無理に運動場へ出させるよう指示したのか。真実が明らかになることはない。闇が深い。

3位 次々と消える入山者たち/十和利山クマ襲撃事件

「熊における食害はヒグマだけ。ツキノワグマは人を食べない」。そんな常識を覆したのが、次に紹介する秋田十和利山(とわりやま)で起きた悲劇である。

秋田県鹿角市と青森県新郷(しんごう)村の境に位置する十和利山。標高990m。チシマザサが群生するこの一帯で、入山者が次々と消えていく事件が2016年に起こった。

日本史上三番目、本州における最大の被害を出した獣害事件である。

概要

2016年5月20日、地元に住む70代の男性Aがタケノコ採りに出かけて、翌朝遺体で見つかった。ひどく食害され、男性の妻は「見ない方がよい」と言われるほどであったという。

同日、現場付近で同じくタケノコ採りをしていた60代の夫婦BとCもクマに襲撃された。夫が反撃するとクマは逃走。妻が腹部に軽傷を負うだけで済んだ。

この時点で注意喚起の看板が設置された。

さらに翌日の早朝。タケノコを採るため入山した夫婦DとEが笛を吹きながら進んでいたところ、クマが出没する。妻のEは逃げて通報することに成功したが、Dは午後に遺体となって発見された。引っ搔き傷だけでなく、腹部にはえぐられた後もあったという。

同日、入山した女性Fがクマに襲われて軽傷を負う。

わずか3日間で、遭遇・死傷者はなんと6名。相次ぐ被害に管理局は林道を6kmにわたり通行止めとする対策をとる。

しかし、被害は止まない。

5月25日、十和田市の男性Gがタケノコ採りに行ったまま行方不明となる。翌日から捜索が開始され、30日に遺体となって発見。齧られたような傷があったとのことである。

なお、その間の5日間にも十和利山裾に広がる田代平で3人がクマに遭遇している。いずれも笹竹でクマの顔を突いたり、鉈で撃退したりと、原始時代さながらの攻防を繰り広げて助かっている。
(この時点で何人登場したの…?)

時は少し空き、6月10日。ついに4人目の犠牲者が出てしまう。

3日前から行方不明になっていた十和田市在住の女性Hが遺体で発見される。性別不明の遺体、といわれたことからその損傷具合がうかがえるだろう。内臓まで食害が進み、クマが土や枯れ葉で覆ったあとがあった。

同日、遺体の発見現場付近で雌グマが一頭射殺される。体長130cm、体重70kgほど。解剖の結果、胃から人体の一部が発見された。

事態はそれで収束したように思えたが――。

6月下旬、山へ入ったIが雌グマの射殺現場から9km離れた山林で3匹の母子グマに襲われる。幸い逃げられたが、事件はまだ終わっていなかったことが明らかになる。

研究者により、射殺された雌グマは食害のみに参加した個体であるという説が浮上した。なんとクマは複数匹いたのである。

調査により、主犯は150cmほどの大型のオスであること、複数匹のクマが食害をしたであろうことが推察された。実際に数ヶ月後の9月、該当の雄グマが捕獲・駆除された。

事件後もタケノコ狩りをする入山者は絶えないので、検問を設置するに至った。現在はどうなっているのかは定かでない。

異常なのはクマか人か

この事件の異常性は次の2点である。食害をしたツキノワグマ。そして呼びかけても呼びかけても入山していく人々。どちらも恐ろしいというか、後者の方が正気の沙汰とは思えない。

警察も手をこまねき、軽犯罪として摘発も考えたらしい。目撃されているだけならいざ知らず、襲われ食害まで出ているというのに……。

この事件は当然ながら自業自得の言葉が各所でささやかれた。

とはいえこぞって採りにいった「ネマガリダケ」と呼ばれる弓状のタケノコは山菜として人気が高い。リュック一つで1万円ほどの売り上げになるらしく、地域の高齢者の間では重要な収入源になっていたとかいないとか。

「自分だけは大丈夫」という謎の思考が招いた悲劇と言えるだろう。

ちなみにこの事件はまだ終わっていない。

二頭目に射殺された雄グマは最初の被害者であるAを襲い、次に3人目の犠牲者であるGを咬殺、第四の犠牲者Hも襲ったのではないかといわれている。

しかし、毛色や体格から、2番目の犠牲者である夫婦の夫Dを襲った個体だけは別であるとの意見が濃厚になった。Dを襲ったクマは毛が赤みを帯びており、これは高齢の雌グマに見られる特徴だからだ。

また、笹竹でクマの顔を突いた人がいたと前述したが、駆除された2頭のクマはいずれもこの発見者がつけた傷を持つ個体ではなかった。

こんがらがってきたので整理しよう。
この事件には少なくとも7頭(うち2頭は子熊)が登場する。

  1. 最初に射殺された雌グマ。当初4人を襲ったと考えられていたが、実際は他の熊が襲った人をあとから食害していただけ
  2. 大型の雄グマ。9月に発見、駆除。第1、3、4の犠牲者を出したと考えられている主犯格。スーパーKなるあだ名がついた(鹿角より)。
  3. 笹竹で顔を突かれたクマ
  4. 6月下旬、Iを襲った母子グマ3頭(うち子熊はのちに駆除)。
  5. 第2の犠牲者Dを襲った雌グマ。スーパーKの母でないかとのこと

うち③~④は駆除されたという情報が見当たらなかった。数年前の事件なので、仮にされていても追記はされないのかもしれない。

しかし、いずれにせよ③~④の生き残った3頭は、第四までの事件で食害をしている可能性が示唆されている。つまりは人の味を覚えてしまったクマなのである。

そんなクマがまだ十和利山にはいる可能性があるわけだ。

しかも今回の殺人熊は、鈴や笛に反応して近づいてきたきらいがあり、人を怖がったそぶりがない。近年、熊除け鈴はあまり効果がないと言われているのも頷ける。

加えて今回のクマは人を食料だと認識してしまった。

ツキノワグマも所詮はクマ。肉の味を覚えたら人を食害するわけだから、ヒグマとさしてかわらない。ああ、恐ろしい。

2位 日本史上最悪の熊害/三毛別熊害事件

ここでもっとも有名な三毛別熊害事件を紹介する。

知名度、死者数ともに随一の陰惨たる事件は、発生の1915(大正4)年から100年以上たった現在でも国内史上最悪の熊害事件といわれている。今後も恐らく更新されることはないだろう(そう祈る)。

寒さの厳しい12月。雪深い北海道苫前村三毛別(現苫前町)の開拓地で事件は起きた。

地名から「三毛別事件」「六線沢熊害事件」「苫前羆事件」「苫前三毛別事件」などさまざまな名称があるが、今回は三毛別熊害事件に統一する。ぶっちゃけ他は一発変換で出てこないので打つのが面倒。

概要

この事件は発生の12月9日から収束まで6日かかっているため、概要もやや長くなる。

三毛別の奥地、ルペシュペナイ川流域の六線沢に本州からやって来た開拓民が住み始めた近代。決して肥沃な土地ではなかったものの、人々はようやく手に入れた自分たちの農地を守りながらつつましやかに暮らしていた。

しかしその場所は同時にヒグマの生活圏内でもあった。

大正4年12月9日、O宅にいた内縁の妻Mと、養子の少年が家内でヒグマに殺害される。

当たり前のようにクマが家の中に入ってくるわけだが、これは開拓民の家の多くが掘っ立て小屋さながらの強度しかなかったためである。クマはMの遺体を持ち去り、家を離れていた家主のOだけが生き延びた。

しかし辺りは暗くなり、妻の捜索はできぬまま夜が明ける。

翌日、集落の男たちによって捜索隊が結成。Mを捜索する中ヒグマを発見するが、銃の手入れ不足で不発が多く仕留めるに至らない。

逃走したヒグマ付近には、Mの頭蓋と脚先だけが残っていたという。ヒグマには頭と四肢の下部だけを残して食べるらしい。

同日夜、2人の通夜が行なわれる。「ヒグマは獲物を取り返しにくる」という習性を恐れ、参列者は9人にとどまった。そして実際に、通夜の最中にヒグマが乱入してきたのである。

棺桶がひっくり返り遺体が散らばり、人々は逃げ惑い、屋内は大混乱を極めた。余談だが、このとき奥さんを踏みつけて天井の梁に逃げた男性がいたらしい。現代なら離婚案件。

一方そのころ。O宅より500mほど下ったM宅には、11人が身を寄せ合っていた(うち1人は胎児)。

戸主の妻・Y、長男、次男、長女、三男、四男。そして、熊害事件を報告するため役場へ赴いていたSの家族である妊婦のT、三男、四男。寄宿人の男・O。

通夜会場を去ったヒグマが次に狙いをつけたのがM宅だった。ちょうど夕飯の支度をしていたところ、窓を破ってヒグマが侵入。やはり3匹の子豚さながら家に入ってくるのだが、現代は大丈夫なのだろうか……?

ヒグマは侵入から50分の間、M宅にいた人々を襲い続けた。「腹破らんでくれ!」といって絶命した妊婦の腹から胎児が引きずり出されていた話は、随一のショッキングさから知っている方も多いかもしれない。

結局、Tとその胎児、2人の息子、M宅の三男の5人が亡くなった。全員食害に遭っていた。

役場から戻ってきたら家族が全員亡くなっていたSの絶望度は計り知れない。唯一の救いは、長男と次男が別の場所に下宿しており不在だったことだろうか。

実はこのとき重症で助かったYの四男(当時1歳)だが、このときの傷が後遺症となり2年後に亡くなっている。こういう場合は被害者にカウントされないようだが、実質的な死者は8名といっても過言ではない。

わずか2日で7人の死者を出したヒグマは、その後山林に隠れなかなか見つけることができなかった。

翌日以降、消防団や警察、猟師、地元の男衆など、延べ600人による討伐隊が編成される。アイヌ犬10頭と鉄砲60丁の武器も投入された。それでも討伐隊はヒグマを仕留めることができなかった。人々はもはや村落を捨てる覚悟をしていた。

結局、ベテラン猟師のYによって胸部と頭部を打ち抜かれ、熊害事件は12月14日に幕を下ろした。

15歳ほどの雄、体長およそ2.7m、体重340kg。
体毛はもっとも凶暴性があるといわれる金色だった。

人類とクマは共存できない

ヒグマが女性ばかりを執拗に狙った点(最初の被害者が女性だったため)、遺体をおとりにするまで住民が追い詰められていた点など、この事件には特筆すべき点がたくさんある。

中でも語り継がれているのが、ヒグマをソリで下ろす際に激しい猛吹雪が吹き荒れたというエピソードだ。風の中腹ばいで歩いていた人が吹き飛ばされるほどだったという。

この現象を人々は「羆嵐」と呼び、吉村昭著の小説「熊嵐」としてタイトルにもなった。

三毛別熊害事件は、史上最も多くの被害者を出した熊害事件として、さまざまなメディアミックスがなされている。小説では「熊嵐」、漫画では「野性伝説 羆風」が読みやすく、ノンフィクションとして知りたいのであれば木村盛武「慟哭の谷」がおすすめだ。

この事件は、誰も悪くなく、そして人間に成すすべなどなかった点が悲しい。原因を強いて挙げれば、住んではいけない場所を開拓してしまった。それに過ぎない。

しかし、当時の開拓民がどのような思いで不毛な土地でも生きていこうとしていたかを考えると、やはり誰も悪くはなかった。

三毛別はやがて廃村となり、今なおヒグマたちの生息圏である。付近には犠牲者の慰霊碑が建てられた。

1位 殺すまで追い続ける異常な執念/福岡大学ワンゲル部ヒグマ事件

国内最大の被害者数を出した三毛別事件を抑えて、福岡大学ワンゲル部ヒグマ事件を個人的なランキング1位とした。

事件が起きたのは1970(昭和45)年。福岡大学ワンゲル部の男子学生5名が北海道の日高山脈カムイエクウチカウシ山に登り、ヒグマに襲撃された。

ワンゲルとは正式名称「ワンダーフォーゲル」。心身の強化や仲間との絆を深めあうことを目的に山歩きや自然生活をする活動で、1930年代から大学生の間でブームになったものである。

友人の少ない陰キャには無縁な活動だが、そんな青春イベントが突如として血に染まる惨劇と化した。

何度見ても覚えられないカムイエクウチカウシ山――通称カムエク山は標高1979m、「アイヌ語でクマの転げ落ちる山」を意味するらしい。しかしアイヌ人が命名したわけではないとか。

登山道は整備されておらず、道は険しい。余談はさておき、そんな山で起きた事件は以下の通りである。

概要

7月14日、福岡ワンゲル部の学生5人は博多駅から列車を乗り継ぎ北海道上川郡新得(しんとく)町の新得駅へ到着した。

彼らのワンゲル計画はそれなりに過酷で、北端の芽室岳 (めむろだけ)から、13日をかけて(プラスで予備日が5日)中日高のペテガリ岳を目指すものだった。

そもそも日高山脈は襟裳岬から富良野と新得町の境にある狩勝(かりかち)峠にわたる150kmほどの山脈で、その長さは本州でいえば東京から富士山程度になる。芽室岳からペテガリ岳も直線距離でいうと東京横浜間ほどだ。平らな道でも歩きたくない。

概要なので細かい登山ルートは省略するが、芽室岳からピパイロ岳、戸蔦岳、七ッ沼カール、日高幌尻岳、七ッ沼カール、エサオマントッタベツ岳など、約10日間かけて縦断計画を実行していた。

彼らはリーダーのT、サブリーダーのS(ともに3年生)を中心に、2年生のK、1年生のNとYで組まれたパーティーで、学生といえど体力、練習量、知識はそれなりにある面々だったという。

特にリーダーのT、サブリーダーのSはWV連盟の医療講習会に参加したり、ラジオの気象通報で天気図を作成したりと、専門家から見てもヒグマの件以外は問題のない行動をとっていた。

しかし経験不足もあり、計画は大幅に遅延していたという。食料や体力面から、合宿はカムウエクチカウシ岳の打ち切りが決定していた。

7月25日、1900M峰直下の九ノ沢カールでテント設営をしたあと、16時頃にリーダーがテントの外にヒグマを発見した。

当時「日高のクマは人を襲わない」といわれていたことや、九州人の彼らがクマに馴染みがなかったせいもあり、恐怖する者はいなかったという。

やがてヒグマがスキリングを漁りだしたので、隙をついてスキリングをテントに入れ、火を焚きラジオを鳴らした。そうするうちにヒグマは姿を消した。

夜9時、ヒグマが再びテントに現れ、こぶし大の穴をあけて帰っていく。彼らはさすがに危機感を抱き、交代制で2人の見張りを置いた。

翌朝26日。3時に起床してパッキンを終えた彼らの元に、ヒグマが現れる。今度はテントの入り口をひっかき始めたので5人はポールを押さえて抵抗するが、あえなくテントは破られた。リーダの機転で反対側の幕から飛び出し50メートルほど逃げたところ、ヒグマはスキリングの食料を漁っていた。彼らの逃走とヒグマの追撃がここから始まる。

リーダーは緊急事態と判断し、サブリーダーのS、1年生のYに「九ノ沢を下りて、営林署への連絡とハンター要請をしてくれ」との指示を出す。

なぜこの時点で全員下山をしなかったかは不明だが、前日の睡眠不足で全員での下山は体力的に無理があったのかもしれない。2人が下山している間、残りの2人が見張りをして1人が仮眠をとるという状態だった。

伝令のため沢を下りたSとYだが、午前7時頃、北海海道学園大学のパーティーと出会う。すると彼らもヒグマに襲われ下山中とのことであった。

SとYは自分たちの学校名や名前を書いて彼らに渡し、ハンターを要請。代わりに食料や地図、コンロなどを譲り受け、再び仲間と合流することにした。このとき北海道学園大学とともに下山していたら、2人は助かったかもしれない(後、Yは犠牲者となる)。

カウイエクウチカウシ岳の稜線付近で5人は合流。テント設営をして夕食作りをしていたところ、ヒグマが出現したので一斉に50mほど下った。

しかし咄嗟のことだったため、皆サンダルや素足、靴下などで駆け出し、シューズを履いて逃げられたのは1年生のNだけだった。

5人は自分たちのテントを放棄して、八ノ沢カールに幕営していた鳥取大学のテントを目指しはじめる。実はその日の昼間に、鳥取大学のパーティーと出会いテントの場所を知っていたのだ。

5人はハイマツの少ない安全な道から、カールに下ることを決意。道中は「帰ったら何を食べようか?」などと話していたことから、まだ若干の余裕が見て取れる。

しかし稜線から70mも下らないうちにヒグマが追いかけてきて、最後尾のSまで追いついた。

Sは横に逸れてハイマツ帯へ身を隠し難を逃れたが、直後25メートル下方からYの悲鳴が響き、しばらく格闘しているような音が聞こえた。Yは「チクショウ」と羆に追われながら下っていったが、それが彼を見た最後の姿だったという。

まもなくSとリーダーのT、1年生のNは合流するが、2年生のKは声が聞こえただけでその場に現れることはなかった。

このとき離れた場所で息をひそめていたKはリーダーの声が聞き取れなかったらしく、近くに鳥取大学の焚火が見えたので、一人野営地へと向かうことにした。

3人は岩陰に隠れて一晩を明かしたが、一睡もできなかった。

鳥取大学と中央鉄道学園生(行動を共にしていた)たちは、150mほど先で野営をしており、3人の姿とヒグマを目撃している。2パーティーは身の危険を感じ、直後に荷物とテントを捨てて下山を開始した。

翌27日は数メートル先しか見えない濃霧であった。朝8時から行動を開始した3人は、リーダーを先頭にガスの中下山をする。

しかし15分ほど下ったところでヒグマが2~3m先に現れた。

死んだふりをして様子を見たが、ヒグマが唸りを上げて襲い掛かってきたためリーダーのTが立ち上がり、カールに向かって駆けだした。すぐさま追いかけるヒグマ。濃い霧に2つの姿はたちまち見えなくなった。

助けることもかなわず、残された2人は下山を決める。斜面をトラバース(横切るように歩くこと。怖すぎ)し、無事沢を下り救助された。

同日、翌28日に救助・捜索隊や山岳関係者、ハンターなど20名を超える人間が入山し、29日から本格的に救助活動が始まる。

30日までの間に、最初にはぐれたY、一人鳥取大学のテントを目指したK、リーダーTの遺体が発見、収容された。

3者ともすべて衣服がはぎ取られ、顔面の損傷が激しく身元をすぐに判断できなかったという。YとTは頸動脈を切られたことによる失血、Kは頸骨骨折が直接的な原因だが、遺体は無数に抉られ、内臓は露出していた。

天候から遺体の山おろしは不可能と判断され、荼毘は山中にて行なわれた。

一方、捜索隊と並行して5人のハンターが該当のヒグマと思われる個体のおびき寄せに成功。5丁の銃による一斉射撃でも一度は立ち上がる生命力を見せたヒグマは、二十数発の弾で倒れた。

4歳の雌、体重約130kg。

この話は近年、かつ大学のサークル活動内で起きた事件であることから、報告書が大学に保存されてきた。報告書を公開しているサイト、生き延びた2名の聞き取り・手記をもとに作成された本が多く、調べればより詳細を知ることができる。

また、Kの遺体付近に手帳が落ちており、ヒグマが現れてから彼が襲われるまでのメモが残されていた。

彼の本名から「興梠(こおろぎ)メモ」と呼ばれるこれが、この事件の恐ろしさを生々しく物語っているといっても過言ではない。

ヒグマから身を隠しつつこれを書けたことがすごいという一方、恐怖がひしひしと伝わる。彼がひとりになってからの一部を抜粋した。

5分ぐらい下って、下を見ると20mさきにクマがいた。オレを見つけると、かけ上ってきたので、一目散に逃げ、少しガケの上に登る。まだ追っかけてくるので、30cmぐらいの石を投げる。失敗である。ますますはい上がってくるので、15cmぐらいの石を鼻を目がけて投げる。当った。それからクマほ10m上方へ後さがりする。腰をおろして、オレをにらんでいた。オレはもう食われてしまうと思って、右手の草地の尾根をつたって下まで一目散に、逃げることを決め逃げる。
前、後、横へところび、それでもふりかえらず、前のテントめがけて、やっとのことでテント(たぶん六テン)の中にかけこむ。しかし、誰もいなかった。しまった、と思ったが、もう手指れである。中にシュラフがあったので、すぐ一つを取り出し、中に入りこみ、大きな息を調整する。
もうこのころは、あたりは暗くなっていた。しばらくすると、なぜかシュラフに入っていると、安心感がでてきて落ちついた。それからみんなのことを考えたが、こうなったからには仕方がない。昨夜も寝ていなかったから、このまま寝ることにするが、風の音や草が、いやに気になって眠れない。
明日ここを出て沢を下るか、このまま救助隊を待つか、考える。しかし、どちらをとっていいかわからないので、鳥取大WVが無事報告して、救助隊がくることを、祈って寝る。

7月27日
4:00頃、目がさめる。外のことが、気になるが、恐ろしいので、8時までテントの中にいることにする。テントの中を見まわすと、キャンパンがあったので中を見ると、御飯があった。これで少しホッとする。上の方は、ガスがかかっているので、少し気持悪い。もう5:20である。また、クマが出そうな予感がするので、またシュラフにもぐり込む。
ああ、早く博多に帰りたい。

7:00沢を下ることにする。にぎりめしをつくって、テントの中にあったシャツやクツ下をかりる。テントを出て見ると、5m上に、やはりクマがいた。とても出られないので、このままテントの中にいる。

3:00頃まで(途中判読できず)他のメンバーは、もう下山したのか。鳥取大WVは連絡してくれたのか。いつ助けに来るのか。すべて、不安で恐ろしい。
またガスが濃くなって………。

クマは気まぐれ、定石は通じない

この熊害の異常性は、やはり当時の常識からは考えられない行動をとった、という点に集約されている。

なにより一つのパーティーを執拗に付け狙い、数回にわたって襲撃している。

そして解剖されたヒグマの腹から、彼らを襲ったという決定的な証拠が出なかったことも話題を呼んだ。

胃の内容物や付近にいた点などから、パーティーを襲ったヒグマであると判断されたが、3人を食害した形跡は一切見られなかった。つまりヒグマは彼らを襲っただけで食べてはいないのである。

ヒグマは消化が早いため食欲がすさまじく、殺戮と食害を繰り返すことで知られている。そのため、ヒグマに襲われてまったく食べられていない点が逆に不気味だといえる。ヒグマはスキリングを奪われたことで5人を敵と認識し、殺害を目的として危害を加えた。

当時、ヒグマは人を畏れ、音や火を見て逃げると言われていた。しかしこのヒグマは火や音、人の気配におびえるどころか人に近づいている。これに関しては過去の北海道で起きた事件からもヒグマは人を恐れないような気がするので、そこまで異常ではないのかもしれない。

むしろヒグマに関しては「人を恐れず、火や音、死んだふりも効果がなく、逃げても追いかけてきて、一度目を付けられたら延々に追われる」を基本的な認識にした方がいいのかもしれない。出会ったら終わり。

しかしネットのなかった当時、北海道の山に関する情報は少なかった。過去の事件についてもまだ書籍化やメディアミックス化で知れ渡る前であり、彼らがヒグマの習性について知らなかったのも無理はないだろう。

出会った当日に下山をしていれば助かったかもしれないが、済んだ後の他人事ならいくらでもいえる。

なかなかその場その場で最適な判断を下すのは難しいことだろう。

登山がブームになった頃とときを同じくして、全国的にクマの行動が大胆になってきている話も聞く。

今回の事件は山にハイマツの実が充実していたにも関わらず、ヒグマはスキリングを漁った。人の食料を口にしたクマは、その味を覚え登山者を襲うのかもしれない。

よく「熊は山に食料がなくなると里に下りてくる」との話を聞くが、実際にはその理由もあるが、人里の食料のほうが美味しいために下りてきているらしい。

クマだっておいしいものが食べたい、ということだろうか。

そのため、クマの目に里の食料の方が魅力的に映ってしまった以上、人類との共存などできないのではないかと思う。

話は逸れてしまったが、福岡ワンゲル熊害事件は助かりようもあったが、しかしただ不運な事件といっていいだろう。

ちなみにカムエク山は訪れる人はいるもののまだ登山道といえるものはなく、ヒグマも毎日のように出没するとのこと。

ワンゲル部のように襲われるケースは少ないらしいが、クマが襲う場合とそうでない場合がランダムなのでそんなロシアンルーレットはしたくない。

入山者は気を付けてほしい、としかいえない。

そのほかの参考図書

参考図書じゃないけど、この漫画は面白い。

ヒグマ撃ちを趣味にする、ちょっとヤベー女の話。

まとめ

以上、印象に残った熊害事件8つを紹介した。

本当は番外編としてロケ中にカムチャッカ半島で襲われた写真家・星野道夫氏のエピソードも書きたかったが、力尽きた。

既に2万字近い文章量で、途中から「自分は何のためにこれを書いているんだ?」という気分になってきたので今回はここら辺で終わりにする。

クマに遭った際の対処法を考えてみる回や、クマは増えているのか減っているのか?などの考察も予定していたが、また今度。気が向いたら書いてみる。

人間も熊も気まぐれということですな。

この記事を書いた背景には、クマの駆除・捕獲問題がある。

人の居住区にクマが出現した際、クマは射殺される場合が多い。地元で水田に子熊が出没した際にも同様の処置が取られたが、これに対して「子熊なら殺さなくてもよかった」という意見が多くみられた。

また、近年北海道の標(しべちゃ)町では「OSO18(おそじゅうはち)」が問題になっている。

推定体長2m、体重300kg、65頭もの乳牛をすでに殺傷してきた巨大グマだ。

まるで忍者のように姿を隠すことから「忍者グマ」とも呼ばれているが、このクマの駆除を目指す自治体に「かわいそう殺すな」「動物虐待」との抗議が相次いでいるらしい。もちろん地元住民は「襲われる前に撃ってくれ」と頼んでいる。

きっとクマが出没する市町村に住んだことなどないのだろう。

人命はもちろん、人々が生きていくために必要な畜産物・農作物にも影響が出ているというのに。

農村の人間が育てた畜産物や農作物を享受しながら、負の側面は押し付ける行為のおかしさに気づかないのだろうか。

おめでたい人は実情を調べようともしないから知ることもないだろうが、クマの恐ろしい側面を知って欲しいという意味もあり書き始めた。

近年、クマの被害が増えてしまったのは一時期行なった保護活動が原因であるとも言われている。

たとえ利己的であるとしても、やはり人類はまず人類の安全性と命を最優先にするべきではないかと思う。それは身勝手というより、ただ生きることの証明に過ぎない。

とはいえそこは思想の問題かもしれない。反論は好きにしてもらって構わないが、北海道かカムチャッカ半島にでも移住してから言ってもらいたいものだ。

そんな私は無駄にクマについて知ってしまったがために、最近は夜中に見る大きな石なんかがクマに見えて震えている。

秋口になり、クマの活発な季節になった。

いざというときは武器を持っている方が生存率が上がるので、クマ撃退スプレーとともに竹やりや鉈、斧などを携帯した方がいいのかもしれない。クマに捕まるのが先か、警察に捕まるのが先かって感じだけど。

ともかく私も山に行く機会が多いので、クマとの遭遇だけには気を付けたい。

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